ミシマサイコ 柴胡Bupuleurum scorzone-aefolium Wild.var.stenophylliumNakai、
中国サイコ(セリ科)
寄贈者名 1996橋本竹二郎氏(ミシマサイコ)、2003呉氏(中国サイコ)
柴胡
[気味]苦・微辛、微寒
[帰経]肝・胆・心包・三焦
[主治]胸脇苦満、寒熱往来、胸腹部や脇下部の痛み、呼吸器病、消化器病、循環器病、マラリヤ。黄疸(透表泄熱・疏肝解鬱・昇挙陽気)。
ミシマサイコの名は、江戸時代、上方から東下りをする旅人は、東海道の三島の宿に立ち寄って、生薬の「柴胡」を買い求めるのが、ならわしのようになっていた。他の地のものにくらべて品質がよいというのが評判だったからです。
茎葉を刻んであぶり、茶がわりとして常用すると、肝臓を丈夫にするうえ、結核体質の体を強壮にするといわれる。
繁殖法:4月種子蒔き。発芽までには1ヶ月ほどかかる。株間は10cmほどにする。
かげろうや 柴胡の糸の 薄曇り (松尾芭蕉)
関東以西の太平洋側、日当たりのよい丘陵地帯に自生していましたが、現在では非常に少なくなっています。草原に野生する株は8~10年以上も生育しています。しかし畑に栽培すると2~3年で果実を一杯つけてほとんどが枯死してしまいます。生薬「柴胡」の栽培・生産には、種子を蒔いてから二年目の秋に根を収穫します。野生品に比べて木部が目立ち、気味薄く渇いた感じがします。
『神農本草経』中品に収載される重要な薬物です。単独では用いず、他の数種の薬物と一緒に処方される薬物で、吉益東洞の『薬徴』には「胸脇苦満を主治するなり。傍ら寒熱往来、腹中痛、脇舌溶鞭を治す」とあり、漢方薬に配合される重要な漢薬です。
柴胡を日本人が知るのは奈良時代のこと、大和朝廷は隋・唐の医薬学を積極的に導入。この影響で我が国最初の薬物書『本草和名』には、和名乃世利、一名波末阿加奈。延喜式三十七巻典薬寮に臘月御薬、中宮臘月御薬、斎宮寮、左右近衛府、兵衛府などに備える常備薬と定め。延喜式諸国進年料雑薬に尾張十二斤、美濃十斤、丹波十二斤、播磨十斤、備前十斤、安芸六斤(延長五927)の貢進があったと記録されるので、このころから重要な薬物として知られていた、と同時に我が国の処々より産出があり豊富に天産していたのが伺えます。下って承応二(1652)年に上梓の『新編和歌能毒』に「柴胡微寒熱さしひき胸いきれ左の脇の癖積によし」「柴胡をば十気をあらい蘆頭を去り挫みて使い火をこそは忌め」とその調製法まで述べ、ほぼ今日と同じように需要の多い薬材であったことが分かります。
医術の開祖といわれる曲直瀬道三が「寒熱さしひき胸いきれ、ひだりの脇の癖(へき)癪(しゃく)によし」と詠んだことでも知られる。癖癪とは、胸(きょう)脇(きょう)苦(く)満(まん)ともよばれる肋骨の下が壁のように張って痛む症状で、寒熱さしひきとは、微熱が出たりひいたりする症状で、寒熱往来ともいわれるものです。
ミシマサイコ(柴胡)は、野生のものから栽培化が始まったのが昭和四十(1965)年前後のことで、その歴史が浅いものです。
あるところに、胡(フー)という姓の進士(しんし)がおりました。進士とは、科挙、つまり官吏になるための試験に合格した人にあたえられる称号です。
さて、胡進士の屋敷には、二慢(アルマン)という名の小作人がいました。
ある年の秋、二慢は急に寒気がして熱を出しました。温病(おんびょう)(温邪によってひきおこされる急性病の総称で、初めに熱が出る病気)にかかったのです。
寒気がしだすとぶるぶるとふるえ、熱がではじめると冷汗をだらだらと流すのでした。
そのようすを見た胡進士は、
(こんな具合じゃ、二慢はしばらく働けまい、それに家の者に病気がうつっては大ごとだ)
と考えました。そこで、「二慢、お前には用がなくなった。どこかへお行き」と言いました。
「だんなさま、ご存知のように、おらには家もなければ、身寄りもねえだ。それにこんな体じゃ、どこへも行かれねえではないか」二慢はたいそう悲しげな顔をしました。
「そんなことは、わたしの知ったことではないよ。お前が働いておったから、おまんまを食べさせてきたんだ。このところ何も働いておらんじゃないか。働かない者に食わすメシはないのだ」
二慢は腹の中が煮えくり返る思いでした。
「長年来、汗水流して、けんめいに働いてきたというのに、こんな仕打ちを受けるとは情けないことじや。みんなにも聞いてもらおう。人さまは何ということか」
胡進士は、それを聞いてびっくりしました。ほかの小作人が知ったら、みんなも働かなくなるだろう。そこで、急に猫なで声をつくって言いました。
「二慢や、病気なんだから、どこかで何日か休んでおいで。元気になったらもどってくればよい。さあ、これは賃金だよ。もっておいで」
二慢は仕方なく、胡進土の屋敷をあとにしました。両足はだるく、まるで錘(おもり)をつけたようです。道みち、寒気がしたかと思うと、今度はカーッと熱がでてくる始末です。そんな具合で一歩あるくのも容易ではありません。足の向くままふらふらと行くうちに、いつしか池のほとりにでました。池の水は半ば乾いていて、周囲には柳の木やアシや雑草がおい茂っていました。
二慢は、歩く力もなく、雑草の茂みに倒れてしまいました。起きあがろうとしても体に力がはいりません。そこで、お腹がすくと、手で土をほじくり、草の根っこを掘り出しては食べ、飢(う)えをしのいでいました。こうして七日間というもの、二慢は草むらですごしたのでした。
七日もすると、手のとどく範囲の草の根は、ほとんど食べつくしてしまいました。そこでためしに立ってみようとしました。すると、不思議なことに、体にとつぜん力がわいて歩けるように思えました。二慢は、起きあがるとゆっくり胡進士の屋敷に向かいました。
二慢が帰ってきたのを知った胡進士は、「なんでもどってきたのかね」 と眉をしかめて言います。
「アレ、だんなさまは、病気が治ったら帰ってこい、とおしゃったでねえか」
「病気はすっかりよくなったのかね」
「ヘイ、このとおり。では畑仕事にまいります」
二慢はスキを持つと、畑へ出て行きました。胡進土は返す言葉もなく、二慢のうしろ姿を眺めているばかりでした。その後、二慢は、二度と同じ病気にかからなかったそうです。
それから暫(しばら)くたって、今度は胡進士の息子が温病にかかってしまいました。寒気がしたり、熱を出したりするようすは、二慢が病気になったときと全く同じです。
その息子というのは、胡進士にとっては、ただ一人の息子だったので、胡進士の心配はひとかたではありません。あちこちから医者を呼んできては診てもらうのですが、一向にはかばかしくありません。困りきった胡進士は、ふと二慢はどうやって治したのだろうと思い、下男に二慢を呼びにいかせました。
「お前はどんな薬を飲んで病気を治したのかね」
「おら、薬など飲んでおらん。自然によくなっただ」しかし、胡進士はなおもしつっこくたずねます。
「おら、お屋敷を出てから村はずれの池のはとりへ行っただ。そこで倒れてしもうた。喉がかわき、腹がへったで、草の根っこを毎日食っておった」
「そ、それはどんな草の根っこだ!」
「ホレ、いつもたきぎにしている草だがな」
「よし、わしを池のはとりへ連れていっておくれ」
胡進士は、二慢に案内させて、池のほとりへ急ぎました。二慢は土を掘りおこして草の根をさがし出し、胡進士に渡したのでした。
胡進士は走るようにして屋敷に帰ると、よく洗って煎じ、その汁を息子に飲ませるように家人に言いつけました。こうして何日か続けているうちに、息子の病気は日ましによくなっていきました。
胡進士の喜びようといったらありません。そこで、この名もない草に名をつけようと思いました。胡進土はしきりに首をひねっていましたが、柴胡(ツアイフー)という名がもっともよいと思いました。つまり、柴(ツアイ)(たきぎ)として燃やしていたので「柴」の字をとり、もう一字は、自分の姓である「胡」をそえて柴胡(ツアイフー)としたのでした。中薬(漢方薬)としてよくつかわれている柴胡の名は、こうしてうまれたということです。