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薬草クラブ ムラサキ

ムラサキ、紫草(ムラサキ科)Lithospermum erythrorhizon SIEB,et ZUCC、の根。
寄贈者名・産地・年月日・経歴:2006、和漢薬研究所

[気味]甘・鹹、寒
[帰経]心・肝
[主治]解熱・解毒・活血薬として麻疹の予防、黄疸、腫瘍、血尿に。解毒作用によって腫瘍の発生を抑える(涼血活血・解毒透疹・利小便滑腸)

 

採取と調整:5月か10月ころ、根を日干しにし、土がかわいたらたたき落とすようにして除き、水洗いはしません。これを生薬の紫根という

日本・朝鮮半島、中国、アムールに分布。

『本草和名』(918)では无良佐岐(むらさき)、『(「)和名抄(わみょうしょう)』(932)では无良散岐と書かれ、中国名の紫草(しそう)にあてています。

 

根の乾燥品を紫根(しこん)と呼び、江戸期の名医華岡青洲(はなおかせいしゅう)が潤肌膏(じゅんきこう)に紫根を加味して紫雲膏(しうんこう)を作ったことでも知られています。

主成分はシコニンと呼ばれる色素で、外傷に塗布すれば肉の再生を促し、解毒作用によって腫瘍の発生をおさえる働きがあります。また、内服して胃や腸にできた腫瘍を体外に排出させます。

 

紫草の栽培、取り扱いは、平安貴族が独占していましたが、のち大名の手に移り、やがて今月のように庶民の扱うところとなりました。

 

紫草寒(しそうかん) 九竅(きうけつ)通じ 水を利す 痘疹(いもはしか)には なをももちゆる
紫草をば 芦頭(ろず)をさりつつ つかふ也 火をいむものと かねてしるべし 

橋本竹二郎訳『新編和歌能毒』)

 

効用

・紫根を最も利用するのは皮膚関係で、外用薬として火傷、凍傷、痔などの用います。
紫雲膏の材料は、ごま油100g、黄ろう38g、豚脂2.5g、当帰10g、紫根10gで、ごま油を鍋に入れて加熱し、静かに黄ろうと豚脂を加えて溶かし、当帰と紫根をきざんで加え、油が紫紅色になったら、熱いうちに乾かした布でこしてかすを捨て冷してから用います。これに薏苡仁の粉末を加えて物を魚の目、たこなどに用いると効き目があります。

・紫根牡蛎湯:当帰5.0;牡蛎4.0;芍薬・川芎・紫根各3.0;升麻・黄耆各2.0;忍冬1.5;甘草1.0;大黄1.0(適量)は乳腺腫、乳がん、リンパ腫、梅毒性皮膚疾患に用います。

 

・紫根染め:日本では紫根染めは推古天皇のころ(608)、小野妹子が隋使を伴って中国から帰国した時のものが、文献上最も古いとされています。
紫根を臼でひき、粉末としてぬるま湯に浸し、色素を出します。布でこし染色液とします。この液に染めたい布を浸してから取り出し乾燥させます。これを何度も繰り返すほど濃く染まります。
次に、この布を灰汁につけ青色とし、さらに食酢をつけて紫色に染め上げます。

 

万葉集より

 

茜(あかね)さす紫野行き標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや君が袖振る

(茜色の光に満ちている)紫野、天智天皇御領地の野で、あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、野守が見るかもしれませんよ)

 

標野(しめの)は「天皇家の所有につき採集禁止」のような標識がしてある草原。野守はそんな草原を見張る番人。標識だけでは効果がなく、番人までおいて盗採りを防いでいたのでしょう。
価値あるムラサキは当時も、厳重に守る必要がある希少植物であったのが、この歌からも分かります。

 

-この歌に応えて、大海人皇子(おおあまのみこと)が詠んだ歌-

 

紫草のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
(高貴な紫の衣が似合う、とても美しいあなたは今は人妻それでも、私はあなたを恋しく思っています)

 

栽培は至難幻の野草
歌は、額田王(ぬかたのおおきみ)が、天智天皇のご料地(近江の蒲生野)での薬狩りの折り、かつての恋人(こいびと)大海人皇子(おおあまのみこ)(天武天皇)にあてて詠んだ万葉集第一期の代表歌。

続く大海人皇子の返歌とともに万葉集の象徴ともいうべき有名な作品である。

このやりとりは、中世以降も様々な文学作品に引用され、現代においてなお多くの国語教科書に掲載されるほどである。

歌の紫草は、生薬や染料を得るために栽培されていた紫草を題材にしたものだが、次の大海人の歌にも、やはり「紫草のにほへる妹」という形で詠み込まれ、紫草が愛の相聞のモチーフとなっていることが分かる。

紫草は、生薬や染料となるため、貴重な植物として大切にされてきたようだ。

歌に天皇のご料地として標(しめ)野とあるのは、注連縄(しめなわ)に通じ、一般の侵入を禁じた地域であることを示している。

薬狩りとは、紫草の白い花を見つけると、馬上から矢を射ってそれを人に取りに行かせるという娯楽だったらしい。

鹿狩りの植物版というところだが、古代の王朝ではこのような何とも風雅な行事が行われていたものだ。

狩りの対象となっていたその植物こそが紫草であり、先の相聞歌が誕生する舞台となったのが、紫草が群生するご料地だったというわけだ。

 

紫色は時代、洋の東西を問わず高貴な色として珍重されてきたが、特に権力を象徴する色であった点において特異な存在であったということができる。

紫色を重んじる傾向は、聖徳太子の制定した冠位十二階の最上位は紫(深紫:こきむらさき)に始まり、藤原氏の平安の世には紫式部の女流文学のテーマとして形を成し、戦国武将の豊臣秀吉、徳川時代の江戸紫にまで引き継がれることになる。

 

外国でもやはり、古代中国やローマ時代には皇帝以外の者が身につけてはならない禁色とされていたし、かのエジプト女王クレオパトラに至っては、あまりに紫を愛好し過ぎて、軍船の帆をすべて貝紫で染め、外国船を圧倒したというとんでもない史実も残されているほど。

紫染料が大切にされてきた理由の第一は、その希少性にあり、そのことは先の引用歌に大王(天皇)の占有地に紐で侵入できないように標野(しめの)とされていたことからもわかる。

万葉時代にはムラサキ草はそこいらに群生していたかのような説を唱える向きもあるが、やはり当時から希少種で栽培が困難であったに違いない。

ちなみに、遠き地中海沿岸のローマやエジプトでは紫草ではなく、貝のパープル腺から得た、いわゆる貝紫(※)による紫染色が行われていた。

先のクレオパトラの帆船のエピソードですが、1グラムの紫染料を得るために、貝(イボニシ貝の仲間)が2000個も必要になるとされ、古代においては、一定量の布を紫で染める事自体がとてつもなく贅沢なことだったのだようです。