ゴシュユ・呉茱萸(ミカン科)Euodia sutaecarpa(Juss.)Benth
唐招提寺・1999、中国原産・江戸時代に日本に渡る
繁殖法 春に株分け
呉茱萸
[気味]辛・苦、熱
[帰経]肝・腎・脾・胃
[主治]頭痛、胸満、嘔吐、健胃、利尿薬(暖肝・散寒止痛・下気止嘔)
ゴシュユは、中国原産の落葉樹、雌雄異株で雌株のみが日本に導入。日本で栽培しているものは、すべて雌株だけで、種子のない果実しか出来ない。これは興味ある事柄だが、雄株を中国に置き忘れてきたような状態で、ゴシュユからも発芽はしない。株もとから出た新枝や根状によって繁殖。
「本草(ほんぞう)和名(わみょう)」(918)、「和名抄(わみょうしょう)」(932)とともに呉茱萸の漢字で生薬名をのせ、日本名を「カラハジカミ」としている。このころは、ゴシュユという植物名ではなく、果実を乾燥した生薬が中国から入っていたと考えられる。 その生薬を見て、山椒に似ていることから、「唐の国の山椒」の意味で、「カラハジカミ」と名づけたと解釈できる。ハジカミは山椒のこと。
渡来は、延喜式のころの実在は疑わしく「享保7(1722)年朝鮮国から移植」の記録が残っているので、実質的な渡来はこのころかと考えられます。
薬用には、実が赤味を帯びたころに収穫し、太い軸を除いた未熟果のみにし乾燥、収納して一年以上経たものを用います。神農本草経中品に「味辛・温。川谷に生ず。中を温め気を下し、痛みを止む。咳逆(のぼせて咳のでる病)・寒熱。湿・血痺を除き、風邪を逐い、腠理(肌のきめ)を開く。根は三虫を殺す。」三虫とは、人の腹の中にすむ三尸(さんし)虫(むし)のことで、庚申(こうしん)の日の夜、眠っている人の中から抜け出して天に至り、その人の陰事や罪科を上帝に報告、するとその人は長生きできないと言われます。この虫が悪さをするので急に逆上せて目眩がし、手足が冷えて吐き気を伴った猛烈な頭痛に苦しまなければならないと考えられました。事実このような症状に、呉茱萸、人参、大棗、生姜の四味からなる呉茱萸湯(傷寒論)を煎服するとケロリと治ったといいます。男性よりも女性に多くみられ、また飲みにくい煎じ薬なので、しゃっくりをしながらでも嘗(な)めるようにして飲んでいると、やがて吐き気も収まり、偏頭痛も霧散したという体験談を聞きました。漢方薬とは不思議な力量を具えています。すべて草根木皮、自然の薬物の賜者です。
因みに重陽(ちょうよう)節は、旧暦九月九日(新暦10月27日頃)です。この日赤い袋を作り、これに茱萸(しゅゆ)を入れ臂(ひじ)にかけ、山に登って「餌(じ)を食(くら)い、菊花の酒を飲まば、人をして長寿ならしむ」といいます。これを重陽の宴、菊花の宴、または菊の節句と呼んでいます。ここでいう茱萸とは、ミカン科のゴシュユだといいます。
「茱萸には呉(ご)茱萸、食(しょく)茱萸、山茱萸の種類があり、九日に用いられるのは呉茱萸で、和名をカワハジカミという」(荊楚歳時記 守屋美都雄 注平凡社刊東洋文庫)とあります。
悪気を避(さ)けるには香気の強いことが条件です。
周処の『風土記』(3世紀)に、「茱萸の気烈しく成熟するを以てこの日を尚(たつと)ひ、茱萸の房を折り、以て頭髻(とうけい)に挿す。
言うところは悪気を避け、初寒を禦(ふせ)ぐ」とありますから、まさに呉茱萸を指しているようです。
春秋時代の話です。
呉茱萸(ごしゅゆ)は止痛の良薬として知られていますが、そのころは呉萸(ごゆ)と呼ばれていたそうです。産地は呉(ご)の国、つまり現在の江蘇省南部から浙江省の北部にかけての一帯でした。
呉の国は、お隣の楚(そ)の国とくらべれば小国でしたから、そのころのならわしとして毎年楚の国へ貢(みつ)ぎ物を献上(けんじょう)しなければなりませんでした。
ある年のこと、呉の国は貢ぎ物のなかに呉萸を加えました。ところが、楚王は呉萸を見るなりかんしゃく玉を破裂させました。
「小国の呉が、よくも国名を冠した呉萸を貢ぎ物にしたわい。楚をあなどるにもほどがある。さあ、さっさと持ち帰られよ」
呉の国の使者は驚き、とまどいました。
そのとき、朱(ヅウ)という楚王の侍医が進み出て申しました。
「呉萸は腹痛によく効きますし、吐き気や下痢を止める良薬です。大王の持病を呉王はご存知のうえで貢ぎ物になさったものと考えます。それにお受けにならねば両国の交わりにひびがはいりましょう」
「たわけたことを申すな。わしには無用の長物じゃ」
恥をかかされた使者は、憤りをおさえて退出し、呉の国へと帰って行きました。その姿を見ていた侍医はたいそう心を痛め、とるものもとりあえず、そっと後を追いました。
「先ほどのご無礼、なにとぞお許し下さい。呉萸は私にお預けいただけないものでしょうか。楚王はやがて呉王のお心使いを理解できるときがまいりましょう」
呉萸をひそかに受け取った侍医は、それを大事に持ち帰って、庭に植えたのでした。
一方、呉王は、使者から楚王のふるまいを聞くと、たいそう立腹して、ついに楚の国と交わりを絶ってしまいました。
それから数年の歳月が流れました。侍医が丹精こめて育てた呉萸は枝葉を茂らせ、実をつけるようになりました。その実を薬として使うには青いうちに採り、陰干しにして保存しておかねばなりません。その年には沢山の呉萸がとれたので、それを乾燥して保存しました。
そんなある日のこと、楚王は持病の腹痛をおこしました。痛みがはげしく、額には玉の汗を浮かべています。王宮に詰めていた医師たちは何とかして治そうとしましたが、よい治療法が見つかりませんでした。
侍医は、急いで呉萸を煎じて楚王に捧げました。二、三服飲むうちに痛みはやわらぎ、さらに二、三服飲んだころには腹痛はすっかりおさまっていました。
「たいそう楽になったぞ。それにしてもよく効く薬じゃった。あれは何という薬かの?」
「恐れながら申し上げます。あれはいつぞや呉の国の使者が貢ぎ物としてたずさえてきた呉萸にてございます」
楚王は、呉の国の使者を粗末にあしらったことを思いだし、心から後悔しました。それで、すぐさま呉の国へ使者をやって、和解を申し入れる一方、国内では呉萸の栽培を広めました。
ある年の秋のことです。楚の国では疫病がはやり、人びとは吐いたり、くだしたりで大そう難儀をしました。楚王は一刻も早く民を救うよう侍医に命じました。侍医は呉萸を主薬とした薬をつくり、多くの病人を救ったということです。
楚王は侍医の功績をたたえて、「呉萸」に侍医の姓である「朱」を加え、呉朱萸(ウーヅウユイ)と呼ぶようおふれを出しました。のちになって、呉朱萸は植物なのだから、朱の字に草かんむりをつけた方がよいということになり、呉茱萸と書かれるようになったということです。
(繆文渭著『中国の民話』)